Research
29/03/2017

ハノイにおける「現代アート」受容と2つの「ニャサン(家)」

江上賢一郎

ベトナム最初のコンテンポラリー・アートスペース「ニャサン・スタジオ」

ホーチミンを発ち、ハノイへ。ベトナムの首都であり、人口約700万を抱える政治と文化の中心地であるこの街の歴史は、11世紀李朝の時代にまでさかのぼる。ホアンキエム湖の北に広がる旧市街の通り沿いには古くからの商店が並び、街路にはいくつもの露店や調理場、工房が軒先から飛び出している。小さな路地という路地は移動式の舞台のようであり、人々はまるで劇の演者のように豊かな身振りで道を行き交う。バイクを停めて座席をシート代わりにしたままコーヒーを飲み新聞を読む男性たちや、路上の簡素なキッチンでお粥を売る女性。街路樹の木陰の下で床屋を営む若者から、壁にもたれつつ果物や魚を売る行商のおばあさんまで。ここでは、人々が都市や路上のそのものを生活空間に「見立て」て、それぞれの使用法を生み出し、商売や仕事場や社交といったパブリックと、食事や休憩、歓談といったプライベートが混じり合う異種混淆的な都市空間を作り出している。それとは反対に、湖の南側にはコロニアル様式の荘厳な公官庁や劇場、高級ショッピングセンターが整然と立ち並び、共産党のシンボルである金星紅旗があちこちに掲げられている。

人々の日々の暮らしが息づく路地と、政治的権威を象徴する建築群が混在するハノイ。街の東部を流れるホン川に並行する幹線道路を少し南に下ると、一棟の高層ビルが見えてくる。ハノイ・クリエイティブ・シティという名前で、近年多くのアート、文化、デザイン関連の事務所が入っている文化複合施設だ。この建物の15階に「ニャサン・コレクティブ(Nha San Collective)」のスペースがある。ニャサン・コレクティブは、2013年に設立されたアート・コレクティブで、アーティストのグェン・フォン・リン(Nguyen Phuong Linh)をはじめとする、20〜30代のアーティストたちによって結成され、移動型の展示やゲリラ・パフォーマンスを市内で活発に展開しており、2015年からはこの場所に拠点を構え、活動を続けている。中心メンバーのリンは1985年生まれ。独学でアート活動を始め、ニャサン・コレクティブの活動だけでなく、海外でのレジデンスや展示も数多くこなしている。忙しくもエネルギッシュに活躍する彼女に、自身の活動であるニャサン・コレクティブ、そして、パフォーマンスアートについて話を聞かせてもらった。

オフィス

ニャサン・コレクティブのオフィス
ニャサンコレクティブのホームページ http://nhasan.org/

「ニャサン・コレクティブの活動について話すには、まず『ニャサン・スタジオ(Nhà Sàn Studio)』について少し話をした方がいいと思って」。そう言って、リンはパソコンの画面で一軒の木造住宅の写真を私たちに見せてくれた。

ニャサン・スタジオは、リンの父親で、アーティストのグエン・マン・ドゥック(Nguyen Manh Duc)とキュレーターのチャン・ルーン(Tran Luong) が1998年に設立したベトナムで最初の「コンテンポラリー・アート」スペースだ。「ニャサン」とはベトナム山岳部に住む少数民族モン族の伝統的木造家屋の名で、ドゥックは自宅の1階をギャラリーに、2階をアーティストたちが集まる場所に改装し、実験的、前衛的な表現を発表できる場所として若いアーティストたちに無償で開放した。

現在のニャサン・スタジオ

ニャサン・スタジオ内部(現在はカフェになっている)

ニャサン・スタジオのドキュメンタリー (監督:グエン・マン・フン)

1976年に「ベトナム社会主義共和国」が成立。65年に始まるアメリカの軍事介入によって国土全体が戦場となったベトナム戦争を経て南北統一、社会主義国となったベトナムは、共産圏以外の国々との交流が限られ、芸術表現も社会主義リアリズム、プロパガンダ・ポスター様式が主流だった。そのようなベトナムの芸術・文化環境に大きな変化をもたらしたのは、1986年のドイモイ政策の導入だった。日本語で「刷新」と訳されるドイモイは、市場の開放、海外資本の受け入れなど、「計画経済」から「市場経済」への経済転換政策だ。それは同時に資本主義圏の芸術・文化の流入をもたらし、海外の旅行客を相手にプロパガンダ・ポスター、風景画、絹絵を扱うアート・マーケットが生まれた。

「ドイモイ後、作品が売れる環境になったことで、一部の芸術家たちは経済的に豊かになりました。でも、父たちは、アートはアーティスト自身の思考や感覚そのものを純粋に表現するものであるべきだと考え、急激な商品化がアートの本質を狂わせてしまうと危惧していました。だからこそ、商業主義と距離を置き、非営利で実験的、前衛的なアート作品を発表できる場所が必要だと考えていたのです。またベトナムでは、作品を発表する際には事前に作品の情報を文化・情報省に提出し、それが政治的に適切か否かの審査、検閲を受けなければなりません。当時、ニャサンに集うアーティストたちは、この検閲システムに批判的であり、表現の自由がないことを問題視していました。私は子どものころ、若いアーティストたちがニャサンに集まり、検閲や一党独裁、官僚制等、ベトナムの政治的・社会的問題について熱心に議論していた光景を覚えています」。

グエン・リン・フォン

グェン・リン・フォン

ドイモイは、ベトナム社会の経済的変化(国外からの資本、情報、移動の開放)をもたらすと同時に、美術の分野においても「現代アート」という全く新しい美術表現とその思想を受容するきっかけとなった。しかし、インターネットも十分に普及していない時代に、一体どうやって海外のアートや文化情報を入手していたのだろうか。リンは、以下のようにつづける。

「当時は、ルーンが海外のレジデンスや展覧会に参加するたびに、美術書やアート雑誌を購入したり、ハノイ美術大学で教えていたドイツ人教授ヴェロニカ・ラドゥロヴィッチ(Veronika Radulovic)を通じて、現代美術の歴史、動向や新しいメディア表現の情報を得ていました。同時に、海外のアーティストたちとのグループ展を企画し、ベトナムの若手アーティストたちが直接海外のアーティストと接する機会も作っていました。このような人的ネットワークによって、若いアーティストたちは、共産党が推し薦めるプロパガンダ絵画とは異なる、集団的なパフォーマンス、ビデオ、実験音楽、インスタレーションなど、新たな表現メディアを知り、大きな刺激を受けたのです。彼ら、彼女らにとって、新しい表現方法を実践することは、『表現の自由』の獲得と密接に結びついていました。そして、作品制作だけでなく、美術批評から社会運動まで様々な活動を始めたんです」。

当時のニャサン・スタジオには、ゲイであることを自ら公表し、セクシャリティとアイデンティティの問題を絵画、パフォーマンスによって鋭く表現したチュオン・タン(Truong Tan)や、水墨と水彩を組み合わせて人間の内面性を詩的に表現するグエン・ミン・タン(Nguyen Minh Thanh) 、農村の伝統文化や戦争の記憶をコンテンポラリー・ダンスの主題として取り入れたエア・ソーラ(Ea Sola)など、ベトナム現代アート界を牽引する作家たちが集っていた。彼ら・彼女らは、ニャサン・スタジオでの出会いや学び、相互批評を通じて、イデオロギーと化した「社会主義的リアリズム」という表現様式を拒否し、個人の持つ詩的な想像力や、社会に対する批判的思考を、表現の立脚点として取り入れていくことになる。

パフォーマンスの時代

「2000年代前半は、ニャサン・スタジオを中心にパフォーマンスアートが盛んに行われていた時代だった」とリンは話す。パフォーマンスアートが栄えた背景には理由がある。当時、まだ画材や作品制作の素材を手に入れることが難しかった若手アーティストにとって、自身の肉体そのものをメディアとするパフォーマンスは、簡易かつ即興性が高く、またギャラリーや美術館のように検閲のリスクを介さずに発表できる柔軟性のある表現方法だったのだ。90年代は、政治的意識を前面に押し出す表現が多かったものの、公共空間でのパフォーマンス(特に政治的、性的な表現)は検閲によって許可されなかった*1*1 ベトナムにおいて、検閲はあらゆる表現の前提として存在している。展示や公演は許可制であり、発表の前に、それぞれの作品のイメージ、アーティストの CV、ステートメントなどを、作品メディアの形式にしたがって、文化・情報省の各部門(映画なら映画、彫刻なら彫刻、音楽なら音楽)へ送付しなければならない。検閲は、文化・情報省が行っており、また発表された文化表現の内容について立ち入りの検閲を行う文化警察が存在する。。そこでアーティストたちは、ニャサン・スタジオや郊外で、無許可、即興パフォーマンス、インスタレーション、演奏会を行うようになる。チャン・ルーンはマオケ炭鉱で行われた野外プロジェクトで、全身にもち米を張り付け直立する「Steam Rice Man」を、チュオン・タンは、女性のセクシャリティと社会の保守的な道徳的規範の齟齬を、鎖でできた花嫁衣装によって表現した作品「The Wedding Dress」を発表している。

ニャサン・スタジオでのパフォーマンス

ニャサン・スタジオでのパフォーマンス

「パフォーマンスはある意味で、アーティストにとって『自由な手段(Free Tool)』だったんです。そのころのパフォーマンスは、許可もなくアンダーグラウンドで行っていたので、たとえ警察が来てもこれは家族内のプライベートな活動だと主張していたんです(笑)。もともと豚の飼育小屋だったニャサン・スタジオのギャラリー内では、アーティストたちは検閲を気にせずにやりたいことを自由にできたんです」とリンは話す。

2006年にはルーンはベトナム初のパフォーマンスアート展覧会「ドムドム・パフォーマンス・フェスティバル(Dom Dom Performance Festival)」を企画し、ベトナム人アーティスト22名が参加している。2007年には「Sneaky Weak」 という路上でのパフォーマンス・プロジェクトを企画し、ハノイ、フェ、ホーチミンの各都市で無許可の即興街頭パフォーマンスを行っている。このとき、ヴ・ドゥク・トアン(Vu Duc Toan)が、ベトナムで「賄賂」の隠喩である封をした便せんを道行く人々に配るパフォーマンスや、呪術的なパフォーマンスで知られるダオ・アン・カーン(Dao Anh Khanh)が、全身を白く塗り、横断歩道の白線を塗り直したり、橋の上から白い布を垂らし寝転がるなど、ゲリラ的に都市空間への介入を試みている。さらに、ニャサン・スタジオは、2010年にもパフォーマンスアートに特化したフェスティバル「IN:ACT2010」を企画する。しかし、参加した女性アーティスト、ライ・ディユ・ハ(Lai Dieu Ha)が、パフォーマンス中に衣服を脱いだ映像が社会的スキャンダルとなり、文化警察による家宅捜査を受け、この事件をきっかけにニャサン・スタジオはその活動も含め全面的な閉鎖に追い込まれることになる。

当時、ニャサン・スタジオ内で行われた、ライ・ディユ・ハのパフォーマンス記録映像

ニャサン・コレクティブの設立とドイモイ後世代の表現

リンを始めとする若手アーティストたちは、ニャサン・スタジオの閉鎖によって発表の場を失うが、物理的なスペースを持たずにアーティスト・グループとしてゲリラ的、一時的なアートプロジェクトを展開、自らを「ニャサン・コレクティブ」と命名する。2012年に、国際交流基金ベトナム日本文化交流センターの建物を、一時的にアートスペースへと作り変える展覧会「SKYLINES with Flying people」を企画した。メンバーのトゥアン・タミ(Tuan Mami)は、ハノイに住む60〜70代の女性たちを展覧会に招待し、自身が案内することで、会場を一時的に日常の社交の場へと再接続させる「Mom’s Utopia」を行い、パフォーマンス・グループAPPENDIXは、単純な動作の繰り返しが生みだす身体のズレや共振にユーモアを交えて集合的に演じている。ニャサン・コレクティブ訪問時に展示されていたチュロン・コン・トゥン(Truong Cong Tung)によるインスタレーション「across the forest」は、ベトナム中央高原地帯に住むジャライ(Jarai)族居住地域でのリサーチをもとに、井戸を掘る際のボーリングで出た地層のサンプルを並べた展示だった。ニャサン・スタジオ時代のアーティストの作品が持つ政治的かつ直截的なメッセージ性に比較すると、ドイモイ後に生まれたアーティストたちは、すでに海外の情報や交流が当たり前になる状況で作家活動をスタートさせ、そのテーマも個人の記憶やコミュニティとの関係性、歴史の再検証、グローバリゼーションと地域性などに焦点を当てたものだった。ソフトで繊細、かつコンセプチュアルな表現が多く見受けられた。

ニャサン・コレクティブでの展示風景

ニャサン・コレクティブでの展示風景

ベトナム滞在時には、展覧会の形式や定義そのものを捉え直すプロジェクトにも出会った。ホーチミンのアートスペース「SanArt」が企画した「Embedded South(s) / Mythology」は、キュレーションされた映像作品をユーチューブを介して上映するオンライン型の展覧会で、ハノイやフエのアートスペースでも同時に上映/展示を行っていた。また、ホーチミン在住の映像作家チュオン・ミン・ウィ(Truong Minh Quy)は、「OUT OF FRAME PROJECT」という一週間のドキュメンタリー、実験映画のフィルム・フェスティバルを企画していたが、あえて映画館ではない場所(コーヒーショップや個人のスタジオ)でオンラインで同時に上映し、観客が能動的にレビューを書いたり、討論会に参加できる映像祭だった。少数のメンバーであっても、SNSを通じて瞬時に情報を拡散できるネット環境があり、持ち運び可能なプロジェクターがあれば、どこにでも同時多発的に展覧会を作り出すことができる。告知や情報の拡散だけでなく、双方向的な議論の場、さらにアート受容の環境そのものをネット上でつくりだそうとする動きは、ベトナムの若いアーティストたちにとって、検閲や文化警察の介入を避けつつ、即興的、流動的に展覧会/アート・プロジェクトを行うための新たな戦術/方法論となりつつある。

物理的な場所(スペース)は、政治的・経済的な理由で無くなってしまうリスクを常にはらんでいるが、人間の直接的なネットワークであるコレクティブは、そのネットワークが続く限り、特定の場所に縛られずに活動を継続できる。コレクティブを作る理由について、リンはこう語っている。「アーティストは、もともと集団で活動したり、行動したりするのはあまり得意ではないかもしれないけれど、それは、お互いが異なる存在であるということが前提にあるから。それでも、コレクティブという形を作るのは、共通する想いを実現させていくために集まる必要があるということ、そして文化に関わる仕事を広める役割がコレクティブにはあると思うからです」。

以前はメンバー全員がアーティストであったニャサン・コレクティブは、現在海外でアートマネジメントを学んだメンバーが加入したことで、運営、展示企画、予算の獲得などそれぞれの役割分担に沿って活動し、組織としての専門性が高まったと話す。いまだ資金面や施設運営は不安定な状況ではあるが、展覧会、ワークショップ、教育、上映、ツアーなど市民に向けたアート・プログラムを提供すると同時に、より若い世代のアーティストたちに、国内外での作品発表や、大学の外でのアートに関する学習の機会を提供しようと試みている。

ニャサン・スタジオに集ったベトナム現代アートの第1世代は、検閲と保守化した芸術表現への反発のなかで、「表現の自由」という理念の実践として西洋の現代アートを受容し、パフォーマンスやインスタレーションという新しい表現メディアを開拓していった。第二世代であるニャサン・コレクティブは、検閲の問題に直面しながらも、展覧会を自由にかつ安全に企画・開催できる文化環境、そして若い世代にとってよりよい制作・発表・教育の機会を生み出そうとしている。インタビューを行ったアーティストの多くは以下のように語っていた。アートがこの国に根付いていくために、解決すべき問題は検閲だけではない。まず、アーティスト、そしてアートを受容するオーディエンスを一緒に支援し、育てていく必要があること。そのために、文化政策の充実、教育における芸術・文化プログラムの普及、海外の支援だけに依存しない運営資金の自立化がある、と。いまだ根強い政府の検閲の壁に対して、自らを匿名化しつつ、少数かつ親密なコレクティブを形成し、インターネットを介してローカルとグローバルが直結するネットワークを形成し、流動的、即興的なプロジェクトを展開していく。ベトナムにおける現代アートの諸実践は、個々人の政治的批判意識に裏打ちされたラディカルな表現活動を経て、より長期的な文化・芸術受容の土壌を集団的に作り出すための新たな組織化に、いま挑戦しているのだ。

ハノイの眺め

ハノイの眺め