03/12/2016

東京のあらたな「コモンズ」=共有地を探して

文/アンドリューズ・ウィリアム 訳/田邊裕子、鈴木理映子
[:en]William Andrews[:ja]アンドリューズ・ウィリアム[:]

アンドリューズ・ウィリアム

ライター、翻訳者。イギリス生まれ。キングス・カレッジ・ロンドン(ロンドン大学)卒。2004年から日本に滞在。2016年に「Dissenting Japan」を出版。»more

フランシス・フクヤマとその一派の主張によれば「主義」の時代はすでに終わりを迎え、私たちは今ごろ、進歩的民主主義の楽園に暮らしているはずだった。だが、周知の通り、そんなふうには物事は進まない。切り落とした先から、新たな頭部が顔を出す、あの蛇体の神ヒュドラのように猛烈に、「主義」は息を吹き返している。

極論同士が粗雑にぶつかり合う様子を、テレビや携帯電話の画面で目の当たりにしながら、一般市民に何ができるというのか。その一つとして、近年、世界中で見受けられる、コモンズ(共有地)の再発見に希望を見出したい。

コモンズ(共有地)とは、社会のあらゆる人にとって活用可能な共有資源で、それにはインターネットのようなデジタル資源もあれば、図書館や本のような文化的・知的資産、あるいは水や空気、土地のような自然資産も含まれる。

2011年9月に広がったオキュパイ運動は、金融業界や銀行が世界経済を破壊した一方で、国民の血税によって救済され、なおも「99%」の庶民を支配し続けていることへの抗議でもあった。それらは、親世代が享受してきたような未来の安寧はもう決して得られないと実感したミレニアルズの新たな怒りに訴えた。

この運動は、ニューヨークのズコッティ公園を拠点に始まったが、公園を占拠した人々は、初めからそこにいたわけではない。少しでも歴史に目を向ければ、同様の例は数え切れないほど見つかるだろう。デイヴィッド・ハーヴィーやアンリ・ルフェーブルらの思想家によれば、もっとも重要かつ効果的なコモンズの活用は都市にこそ見出すことができるし、それこそが革命的な運動になりうるのだ。

とはいえ、東京では、ほかの都市のようにはいかない。

なぜ東京ではコモンズがそれほどまでにとらえづらいのだろうか。ひとつの魅力的な回答としては、ドナルド・リチーがいうところの、日本文化の中心にある「滋養に満ちた空虚」を挙げることができる。伝統的な芸術はリチーが指摘する「空虚さ」を好み、多くを語らず、だが常に滋養を探し求めている。とはいえ、都市を文化人類学的に眺める観点からすると、この指摘はどうも表面的で物足りなくもある。結局、ロラン・バルトが見たように、東京の中心は皇居によって閉ざされており、「空虚さ」に占拠されているのだから。では、人々はどこへ向かうのか? コモンズの概念はどのように適応するのだろう。

東京の中心にある公共スペースは、厳しく管理されており、銀座や新宿の「歩行者天国」と呼ばれる区域にもパフォーマンスや販売活動を禁止する看板が見られるし、国会議事堂の周囲では警察が大通りをトラックで遮り、デモの参加者たちを木々の茂る狭い小道へと追い込んでいる。

恵比寿や丸の内、六本木、あるいは品川の開発は、すべて企業によって計画されたものだが、皮肉なことに、そうした民間のプライベートスペースの方がよりダイナミックに、多くの人々を受け入れるようになってもいる。だが、民間セクターは、昨今の新宿や六本木、23区東部地区に見られるように、東京を同質的で匿名性の高い区域が連なる場所へと変える、絶え間ないジェントリフィケーションをリードする存在でもある。

もちろん、皆が常にこの状況に満足しているわけではない。1960年代の安保闘争、1968年から69年に相次いで起きた街頭での騒乱、1969年の新宿フォークゲリラ、あるいは2003年の反戦運動や2012年から毎週行われている国会前の反原発運動など、東京の公共空間における抗議活動は断続的に高まりを見せてもいる。

こうした運動が力を発揮するためには、空間的実践と創造性が結びつくことが必要だ。そのケーススタディには枚挙に暇がないが、紙幅の都合もあり、ここでは平成(1989年以後)の時代になってからの象徴的な社会運動をみてみよう。日本で増大するプレカリアート階級を形成する非正規雇用者によって考案された「サウンド・デモ」は、音楽と踊りを交えた抗議の形式である。この言葉自体は2000年代はじめにつくられたものだが、そのルーツはもっと以前にも遡ることができる。ライブ演奏やDJ、演説とトラックや山車を組み合わせ、商業エリアの傍観者を慎重に聴衆として取り込んでいく手法は、2003年のブッシュ来日およびイラク戦争反対のデモ、2008年の宮下公園における反ナイキ運動、2011年の最初の大規模な反原発運動、そして2015年のSEALDsによる安全保障関連法への抗議運動など、多くの記憶に残る運動を特徴づけてもいる。

このキュレーションでは、3つの社会的アートプロジェクトおよび芸術的社会運動を紹介する。

 

1. 反原発テント美術館(2015−16)

wallpaper_03_1280x1024

「オキュパイ・トーキョー」は始まってすぐに勢いを失ったが、2011年の福島第一原発の事故に値する応答として始まった反原発運動は翌年にピークを迎え、長期的な座り込みを展開した。2011年9月11日、ベテラン活動家たちは、経済産業省の前にテントを建て、日本の首都の、政府の心臓部でもある霞が関の一角を占拠した。彼らは2016年8月21日までそこで活動を展開したが、経産省の法的働きかけによって、退去せざるをえなくなった。

撤去された時点で、テントは一つだけではなくなっていた。2015年12月5日、二つ目のテントがアートスペースとして登場した。この反原発美術館は、覆面画家の281Anti-Nukeや活動全般のアイコンともなった奈良美智らの作品を展示することで知られていた。オキュパイ・ニューヨーク運動にあった無料図書館の本が警官たちによって運び出されてしまったのと同じように、東京のもっともアーティスティックでない場所につくられた、オープンなアートスペースは失われてしまった。だがその精神は今も生きている。すべての作品は、テントに直接描かれたものも含め、主催者たちによって保管されており、望めば誰もが、どこにでも、新たな反原発テント美術館をつくることができる。

 

2. Port B「国民投票プロジェクト」(2011−)

referendum-project-1

referendum-project-2

photo: Masahiro Hasunuma

原子力発電のような差し迫った問題に対してさえ、国民投票の行われたことのない日本で、高山明とそのユニットPort Bが東日本大震災後初めて発表した作品は、「国民投票」を取り上げたものだった。高山とそのメンバーは、東京と福島の中学生たちに、同じ質問を投げかけたインタビュー映像をアーカイブ化する、観客参加型のプロジェクトを立ち上げた。これらの映像は、フェスティバル/トーキョーの開催前と期間中にわたって東京や福島のさまざまな場所を移動するトレイラーの内部につくられたブースで鑑賞できるようになっていて、観客は自由にそれを鑑賞した後、中学生たちが答えたのと同じ質問が書かれた用紙に答えを記入し、投票箱に入れる。それで「国民投票」に参加したことになるのだった。

これに加えて、トラックの停車地ではさまざまなフォーラムやトークがサテライトイベントとして開催された。トラックは移動型アゴラとなり、政治演劇にありがちな説教くささ、鬱陶しさを退けつつ、無関心で塗り固められたこの国の社会参加にとって不可欠なぷらっとフォームとなったのだ。

このプロジェクトは、日本国内のさまざまな場所をキャラバンし、インタビューアーカイブを増やしつつ、現在も続けられている。

http://www.referendum-project.com/

3. マネキンフラッシュモブ かながわ(2016−)

日本のフラッシュモブは、今ではすっかり、いたずらかトリックの類として、テレビ、CM、 結婚式用のものとされてしまっている。とはいえ、何人もの人間が公共の場で同じ動きをすることが、政治的メッセージになりうることは誰もが知っているだろう。フラッシュモブが一種の流行だとしても、シット・イン(座りこみ)やダイ・イン(死亡している状態を模倣する抗議デモ)から発展したものだというのは明らかだ。

マネキンフラッシュモブという小さな反戦団体が、横浜にほど近い町、海老名でモブを企画した。参加者たちは、似通った服装をして、プラカードを持って順番に歩道を悪く。彼らは、時折立ち止まってはポーズをとり、また散っては同じことを繰り返す。

静かな郊外の秩序だった日々を揺るがすこうした振る舞いは、単純だが効果的だった。神奈川が彼らのようなシチュアシオニストのいたずらにとりあったのは、この時だけだったかもしれない。海老名のフラッシュモブは、市長がそれを攻撃する発言をするまで、波紋もなく続いていたが、それをきっかけに市は公共空間でのフラッシュモブを禁止する対応を図った。

だが、臆することなくフラッシュモブは別の場所で続けられ、抗議者たちは集会の自由、そしてパフォーマンスの自由を確かなものにするために裁判に訴えている。

17192379_644803835705062_3042903921358117438_ofacebookより

*海老名駅前自由通路訴訟については、2017年3月8日、横浜地裁にて、原告側勝訴の判決が下された。2日後、海老名市が控訴しないと発表、判決は確定した。