2000年代に注目を集めた国際的演劇作品の多くは、劇場表現の基本条件に問いを投げかけるものだった。かつてモダニズムは「内省」行為に情熱を注いだが、これらの作品群は、自らを省みる行為をさらに一歩進めた。そうした方法論はジェローム・ベル、ウィリアム・フォーサイス、そしてリミニ・プロトコルをはじめとするアーティストの作品で、顕著に具現化されたといえる。彼らの作品は、振り付けられ、あるいは演劇化された表象を介して、舞台上にある身体とそれに臨む観客の知覚との、今までとは異なる演劇的対話を促した。もちろん、ハンス=ティース・レーマンが指摘するように、こうしたモダニストたちの知的介入に促された内省行為は、1950年代に美術界を多いに影響を与えたものの、舞台芸術界においては1990年代に入るまで、ほとんど効力も活力も持たずにきた。
単なる「様式」や「形式」のリニューアルではなく、上述した舞台作家たちは、劇場構造も含めた、観客、観劇行為、そして観客の知覚そのものに働きかける表現装置そのものを革新した。近代美術の最盛期に見られたような、単一素材をどこまで追求できるかという還元主義的な表現とは大きく異なり、彼らは劇場という名の「媒介物」の探究を、多層的・多義的に広げていった。それは例えば物質/非物質、建築/感覚、直接的/婉曲的表現のすべてを含んだ。
絵画や彫刻とは異なり、演劇は、構成する諸要素がひとつの物質へと集約されていくようなメディアではない。なぜなら演劇についての問いは、脚本、俳優、美術、といった形式的要素のみならず、演劇空間を構成する多種多様な非形式的要素にも及ぶからだ。
控えめに言っても、「見る」構造を再編成すれば、それは「五感」のありかたを再形成することになる。 「Theatre」の語源である、ギリシャ語の「théâ」は、見ること、考えることを意味し、そもそも、この二つの行為が不可分であったことを示唆する。演劇とは、自分たちが置かれた文脈を、構築し、再構築し、さらに再考するための全体的な行為であり、またその行為を介して、私達は世界に対しての視座を構築し直すことになる。
つまり演劇という名の装置に関する問いは、より広義の文脈で考えるべきなのだ。なぜなら人々がフィジカルな場所に実際に「集合する」演劇は、レーマンの定義によれば、そもそも極めて「社会的」な現象だからだ。そしてこの現場で、演劇は、他のどの芸術表現よりも直接的に、エネルギッシュに、政治的に逼迫した数々の問題——特に共同体と民主主義にまつわる問題——に攻め込んでいく。ごく近代的なメディアだからこそ、共同体の問題が、否応なく舞台上で取り上げられることになるのだ。
つまり演劇の基本条件を問うことは、共同体という名の、まったく幻想的な世界表象を再考することにつながっていく。通例的な「劇場」は、束の間のあいだ、同じ共同体を生きているという幻想的な感覚を促す支配的なメカニズムを強化する。そして偶然にもこれは、いわゆるプロパガンダの基本条件と重なる。劇場構造を再発明するということは、この「感覚の規範」への挑戦を意味する。この取り組みによって、感覚の基礎構造——ランシエールの言葉を借りれば「感性的体制」——を再構築するための可能性が開かれていく。
現在の政治状況を扱ったり問いを投げかけたりすることを、すでに様式化された因襲的な劇場で行ったとしても、支配的な感性的体制に根本的な変化をもたらすことはない。むしろ観客の考えの同質化を推し進めることになるだろう。共同体と民主主義についての力強い問いを立ち上げるためには、現在ある集合体のありかたを揺るがし、考えなおすことが不可欠だ。
演劇的な経験を構成するものは何か。人はどのように感覚的にある出来事と睦み合ったとき、それを「劇的」と呼ぶのか。「演劇」的な実践を通して、認識され、現実化される「共同体」の代替形式はどんなものか。「演劇」を決定付ける条件とはなにか。そしてその条件を後期資本主義の文脈において問い、揺さぶり、再定義することとは何を意味するのか。
これらの問いこそがまさに、2010年代の韓国における舞台表現の実践を特徴づけてきた。またその逆も言えるだろう。何人かの韓国人作家たちは、観客、舞台、演者の新たな関係性を追い求め、演劇的体験の基本条件を物理的に再設計した。彼らは「théâ」という統合的感覚条件を再設定する作業を通じて、演劇という名の装置を変更し、従来のありかたに捕らわれない芸術的体験を目指した。当然、ここで重要となるのは、五感を再編成に付随する政治的な意義だ。
ここでわたしが紹介する作品は、必ずしも「政治的芸術作品」ではない。ここで紹介するアーティストたちは、政治に関する概念を非政治的に示すような作品とは全く異なり、感覚条件そのものを問いただすような作品を生み出している。つまり政治に関与すると思われていないような問題をポリティカルに扱うという点で、これらの作品はより深い意味で政治的なのだといえる。
演劇の目的は、新たなドグマを設定することにはない。むしろわたしたちのドグマを下支えする五感を揺るがし、問いを投げかけることに目的があるといえる。演劇は、支配的な装置として機能するから民主主義に貢献するわけではない。演劇が真に民主主義的になるのは、「異なる」感覚を(再)定義しようとするときにではなく、批評的に感覚を再発見する必要性に迫られたときだといえるだろう。
1:パク・ミンヒ『No Longer Gagok: Room5(ガゴクではもうない:ルーム5)』(2014)
パク・ミンヒは「ガゴク(歌曲)」と一般的に呼ばれる韓国の伝統的唱和法を習得したアーティストであり、その経験を基にした舞台の実践を通して、問いを投げかける。
『No Longer Gagok: Room5↻』では、観客を席に固定された集団としてではなく、個々の聴き手として一人ひとり招き入れる。訪問者たちはある建物のなかの5つの部屋と2つの離れた区画を回り、それぞれの場所に4分間ずつとどまる。その4分のあいだ、かなりの至近距離で、歌、リリカルな詩、あるいは一連の身ぶりが観客に披露される。7つの場面は、彼女が上演するガゴク・パフォーマンスの一部を成している。
音楽表現の私有化、また歌い手/聴き手の物理的な関係性の再構築は、歌う行為に対するパク自身の内省から派生した。高度な習練を積んだガゴク歌手であるミンヒにとって、歌うこととは、個人的で身体的な喜びをもたらす行為であり、それは聴き手にとっても同じことがいえる。「音楽的」な経験は、究極的には、聴覚器官以外にも及ぶといえる。空気の振動によって成立する歌唱行為は、触感的とは言わないまでも、まちがいなく共感覚的である。商業主義な舞台で採用されている「規範的な」劇場構造では、彼女が音楽表現において重視しているものを伝えられないばかりか、既存の眼差しと権力の関係性を強化してしまう。パクの革新性は、劇場構造だけでなく感覚を再編成しようと試みた点にある。芸術的な改革が、まさにその「場所」において行われるのだ。
集団的反応が後押しする圧倒的な力から分離されることで、観衆はそれぞれ鑑賞にどのように向き合うかを再検討し、同質的で、同調的な、単一集団から分離された、一人の「個人」として、自分自身を考えなおさなければならない。演劇の基本原理は、このような極めて親密で、高度に個人化された体験にあると私は思う。もし少しでもオルタナティブな共同体を形成できる可能性があるとするならば、その基盤は個々人の差異、ランシエールが言うところの「不和」にこそあるのではないだろうか。たとえそれがどれほど一過性のもので、記録不可能なものだとしても、不和の共同体は、五感の再構成を介して、はじめて機能するのである。
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2:キム・ボヨン『Tele-Walk(遠距離の歩み)』(2013)
観客は果川市(ソウルのベッドタウン)にある国立現代美術館の芝生に誘導される。遠くに淸溪山(チョンゲ山)が見える。日が暮れるにつれて、ほとんど不可視な二つの光が、山中の別々の場所に現れ、お互いに近づくようにゆっくりと動き出す。二つの光は架線工事作業員が身につけているものだが、彼らがどんな人物なのかは作品内で明かされることはない。導線を可視化してみせる彼らの厳しい肉体労働は、単純な光の点に還元されてしまう。本作において演劇的体験を構成しているのは、 この二つの光が近づき、すれ違い、また離れていく長い時間経過にこそある。
『Tele-Walk』は、観るという行為の、規模および空間的な作法を再考することにより、演劇体験における身体条件を揺るがし再構成する。本作は舞台と鑑賞者のあいだに新たな関係性を想像する。なぜならこの静かなスペクタクルは、遙か彼方の借景で取り行われるからだ。これはブレヒトがいう「異化効果」の、直接的で、粗っぽい、採用事例だ。遠く離れた場で行われる上演は、演劇体験における感覚の再編成を観客に促す。また、観客がみずからの感覚、及び空間と対話するための、異なる方法論を提供する。
観る行為は、特定の空間的な仕組みのなかで作動する。演劇も、同様である。キムの演劇空間で俎上にあげられるのは、「空間」そのものであり、それはまた演劇をとりまく、フィジカルかつコンセプチュアルな条件を設定しなおすための政治的プラットフォームとして作動するのだ。
3:キム・ユンジン『Guryong Fantasy(九龍空想 – 神話の甦生)』(2011)
多層的に計画されたこのイベントは、ある単純な行為から始まる。ダンサーで振付家のキム・ユンジンは、四人の選ばれた観客に妖精のダンスを披露する。上演場所は江南区の九龍にある小さな小屋。裕福な地区の中心地に残る「未開発」地区だ。ダンスはその地域に根付く神話を再構成したもので、サイト・スペシフィックな演目としてはじまる上演は、徐々に、より大きなイベントの一部を形成することが明かされていく。
何百人という一般的な(選ばれた四人以外の)観客にとっては『Guryong Fantasy—Resurrection of Myth(九龍空想 – 神話の甦生)』は、シンポジウムのようなイベントに思えるだろう。ダンスを見た4人の観客が、別々の部屋でおもいおもいにダンスの解説をすることになるからだ。観客は4つの解説のうち一つしか、聴くことができない。それぞれの説明は、主観的な認識と解釈に満ちており、話法にも特徴がある。これら控えめな表現が形成するのは、個々に孤立した主観的証言の並列でしかない——そう、ちょうど『羅生門』のように。ほとんどの観客はダンス作品を直接体験することが許されないばかりか、いわゆるシンポジウムも、部分的にしか経験することができない。キム自身も含む全ての参加者が「作品」全体を経験することができないのである。つまり、ダンス作品そのものが、妖精のように捉えどころのない幻影として立ち現れてくる。キムは、通例の演劇体験が孕む同質的な鑑賞メカニズムを解体することを介して、伝統的女性舞踊を支配してきた「神話」そのものの解体を試みる。『Guryong Fantasy—Resurrection of Myth』は、ファンタジー(幻想)的ではあるが、一般的な意味で「ファンタスティック」なイベントではない。むしろここでは批評的に、神話のメカニズムを問われることになる。
ここでは散漫な議論のプロセスが、ダンスの身体的経験に代わり提示される。とはいえ、そもそもこの二つは本当にまったく異なる領域の行為なのだろうか。「ダンス」と「ダンスでないもの」を定義づける条件とは、いったい何なのか。また、ダンスや神話において、排斥や神格化のメカニズムは、どのように作動するのだろうか。
(翻訳:岩城京子、田邊裕子)