Research
18/07/2017

サン・アートに見る社会主義国家ベトナムにおける芸術的政治学

エグリントンみか

ベトナムの南と北の首都

人口約800万人を抱えるベトナム社会主義共和国最大の商業都市ホーチミン、旧名サイゴン。かつての南ベトナムの首都が解放/陥落され、北ベトナムの英雄の名を冠された1975年から40年余を過ぎても、「ベトナム」と聞くと即「戦争」を想起させるほどの破壊的なイメージを流布させた内戦と冷戦は、同地では皮肉にも「アメリカ戦争」と呼ばれている。戦争の歴史が刻まれた統一会堂や戦争証跡博物館に並んで、フランス統治時代の面影が残る街並は、2018年に開通予定の地下鉄やらビルやらの工事現場で遮られ、慌ただしく行き交うバイクの騒音と路上で商う人々が発する南国的な開放感で満たされ、ここが東南アジアの共産党独裁国家であることをしばし忘れさせる。時々スコールに見舞われる同じ国の雑踏を歩いているのに、サイゴンより約1100キロ北に位置するハノイのより柔らかな日差しの下では、金星紅旗が揚げられた建造物や、儒教や仏教の寺院が目立ち、政治的権力の存在と中国文化の影響を直に肌で感じる。国家統一後も二つの「首都」は、南と北の異なる文化風土を互いに競い合っているかのようだ。

ベトナム戦争と難民・移民とサン・アート

2007年に創設されたベトナム語で「プラットフォーム」を意味する非営利団体サン・アートは、ディン・Q・レ(Dinh Q. Le, 1968- )、ティファニー・チュン(Tiffany Chung, 1969- )、プロペラ・グループのトゥアン・アンドリュー・グウェン(Tuan Andrew Nguyen,1976- )とプーナム(Phunam, 1974)によって創設された。

第二次世界大戦後70年、ベトナム戦争終結40年に当たる2015年に森美術館で行われたアジア圏初の個展『明日への記憶』(*1)が開催されたディンを筆頭に、 国際的な活動を展開する四人はいずれも1960年代から70年代にベトナムで生まれ、幼少期に難民としてアメリカやフランスに移り住んだ出自を持つ。こうした母国を失うことで得た複数のアイデンティティと視点を持つディアスポラたちが、1990年代後半から2000年代にかけてベトナムに帰国すると、ハノイに遅れてサイゴンのアーツシーンが活性化していった。

社会主義、産業政策、市場経済、国際関係を「刷新」するドイモイ政策が1986年に導入された結果、海外からの情報が増え、愛国主義に訴える共産党のプロパガンダのための文化政策が疑問視され、文化局の検閲や文化警察の介入を巧みにすり抜けながら、個人の表現の自由を追求する人々が次第に増えていた背景も忘れてはならない。基盤も情報も機会も助成金も欠けているベトナムの芸術環境を改善し、ベトナムのアーティストたちと繋がり、育むために、上述の四人は「友情を媒体とした」磁場を立ち上げ、サイゴン市内の家賃の上昇に伴って引っ越しを繰り返し、物理的な空間の必要のないオンラインも含めて「場」を模索しながら、サン・アートを運営してきた。(*2)

2009年には、移民の出自を持つ両親からオーストラリアに生まれ、英国、中国、台湾の美術館で経験を積み、ポストコロニアリズムの視点からキュレーションを行うゾーイ・バット(Zoe Butt)をディレクターに迎えている。2017年に創立10周年を迎えるサン・アートは、文学から視聴覚芸術に至るジャンル横断的なプログラム、ワークショップ、レジデンシーなどを旺盛に企画し、アーティスト間の交流、討論、教育、交流を展開し、その存在感を国内外に知らしめてきた。

2016年10月末日、筆者がサン・アートを訪れた際にディンとゾーイがインタビューに応じてくれた住宅地の小さな通りに面した空間は、リーディング・ルームと呼ばれ、本の貸し出しこそ行っていないが、アーツに興味がある人が自由に立ち寄って閲覧できる場として一般にも解放されている。隣にキッチン兼オフィス、その奥には壁画のある小さな中庭が続く、書棚、テーブルと椅子、アーツ作品が置かれたギャラリーは、集う人の感性を刺激する空気と陽光で満たされていた。

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サン・アート

ディン・Q・レ:民主主義国家から社会主義国家への帰還

カンボジアとの国境の街ハーティエンに生まれたディンは、アメリカ戦争終結後の1979年、南ベトナムを過度に抑圧した共産党の圧政とポル・ポト派の侵攻という二つの困難からボートでタイに逃れ、10歳の時に「英語もまるで話せないのに、父が前の年に他界したために家長として」渡米している。カリフォルニア大学とニューヨーク視覚芸術学校でアーツを学んだ彼は、幼少時に叔母に習ったベトナムの伝統的なゴザ編みを応用し、写真を裁断してタペストリー状に編み込んだ「フォト・ウィービング」によって、ベトナム戦争に纏わる彼自身の体験と記憶、人々が語る/語らない物語、歴史的言説、報道写真や映画のナラティブやイメージが複雑に絡み合う作品を90年代後半から発表してきた。

共産党が「文化は社会の精神的基礎であり、経済・社会の発展を促進する原動力であるとともに社会主義の目標」と決議した1993年、北ベトナム軍の従軍写真家ヴォ・アン・カーン(Võ An Khánh, 1936- ) (*3)への興味から初めて母国を再訪したディンは、しばらくアメリカとベトナムを行き来する生活を送った後、1997年からホーチミンに拠点を置き、国際的な芸術活動を展開している。

先に挙げたサン・アートのディアスポラ・アーティストたちは、親世代は共産党政府に対して未だ不信感を拭えず、移住先に留まるのに対して、子や孫世代が、ベトナムに「帰国」する傾向が見られる。家族をアメリカに残してきたディンのもその一人であるが、民主主義国家アメリカから社会主義国家ベトナムへ帰還した理由として、彼は次の三点を筆者とのインタビューで挙げている。移民の国アメリカでありながら、常に自分はベトナムからの難民や移民で、アメリカ人としては見なされず、自分もアメリカを自分の国だと感じなかったこと。作品を生み出すインスピレーションの源泉が、アメリカよりもベトナムにあること。自由の国であるはずのアメリカが高度に発達した資本主義的法治国家であるために、法と生活費の高さが個人の選択の自由を管理・制限するのに対し、言論や政治活動の自由が制限されながらも、旧態依然とした管理体制ゆえに詰めが甘いベトナムにはグレイゾーンや抜け道が多々残っており、金銭を心配せずに芸術活動を行うことができること。社会主義にしても、民主主義にしても、欠点のない完全な「イズム(主義)」やシステムは存在しえないと考えるディンは、アメリカ以上の精神的、経済的、芸術的自由と、発展途上国ゆえの可能性を母国ベトナムに見出しているのだ。

検閲・サヴァイヴァル・プロテスト

ベトナムに可能性を見出しているとはいえ、現状をディンが楽観視している訳では決してない。共産党政府の批判をすると制裁を受けるため、新聞やテレビなどの主流メディアが国民に真実を伝えることができないこの国では、作品を発表したり、五人以上が集うイベントを実施する前に、過去40年間ほど刷新されない旧態依然とした芸術概念とカテゴリーに従って文化局の許可を得る形での公的な検閲を経なくてはならない。公的な検閲に伴う自己検閲を常に意識せざるを得ないアーティストたちは、現在も根強い監視下に置かれているのだ。

実際、2015年秋には外国人を含むレジデント・アーティストによる展覧会を、 「トークを行うための許可を得ていない」という理由から文化警察が活動を停止している。2016年春のフエの芸術祭では、工場が流した汚染物資により大量の魚が浜辺に打ち上げられた事件を批判し、魚をプリントしたマスクを付けた路上パフォーマンスなどが行われたものの、その最中で関係者が警察に逮捕され、尋問を受けている。幸い関係者は釈放されたものの、その余波を受け、サンアーツにも文化警察からの問い合わせが入ったそうだ。「何時何処ででも覆面警察に偵察されている可能性がある現実を生き残る」ためには、「自分の話すことに常に注意深くあること」が、必要不可欠とされる。(*4)

すでに20年もサイゴンで暮らすディンを「一度この国を去った」ベトナム系アメリカ人という「外人」と見なす文化局の態度は、通常のベトナム人に比べてディプロマティックではあるものの、ベトナム戦争という現在でも非常にデリケートな問題系を扱うディンを茶席に招待することにより、彼の芸術活動が常に監視下に置かれていることを彼に意識させている。こうしたベトナム当局の一連の検閲を、公的にも私的にも受けないために、ディンは創作活動をベトナム国内で行っても、その作品は国外でしか展示しない。国際的に活躍するベトナムを代表する現代美術作家による決断は、ベトナムの検閲はもちろん、政治全般に対する彼の静かなる「プロテスト」でもあるのだ。

常に現在進行形、移動中のプラットフォーム

自分の作品をベトナム国内で見せ(られ)ないことに加えて、情報、文化、教育の三学科からの推薦を得ないと大学などの高等教育機関で現代美術を教えられない「外人」であるがゆえの制限をクリエイティブに転化させながら、ディンはサン・アートを教育の場としても活用してきた。

ベトナムにはハノイ、フエ、サイゴンに芸術大学があるものの、現代美術のカリキュラムは抜け落ちており、その教育は伝統的な技能の習得に終始しているとディンは指摘する。よって教育・レジデンシー・プログラム「サン・アート・ラボラトリー」では、議論を戦わせながら自らの思考を言説化し、マテリアルの持つ意味を掘り下げながら、コンセプトを具現化するプロセスに重点が置かれてきた。結果、独自の思考法と批評性を身につけた地元のアーティストが、ディンたち「外人」に代わって教育機関の教壇に立ち、次世代の人材を育みつつある。

残念ながら、恒常的な資金不足に加えて、芸術教育に対する政府の圧力から、2015年冬を最後に三年間続いた「ラボトリー」は中断してしまっている。2016年冬には、家賃などの経費を削減できる市内三区へ引っ越しをし、物理的空間としてはリーディング・ルームだけが一般に解放されている。ゾーエは開館して間もないファクトリーの芸術監督に抜擢され、事業規模も雇用者も縮小されている。しかしながら、ヒューマン・リソースとネットワークは今も健在であり、ウェッブ上の展覧会などを展開しながら、検閲と維持費に拘束されないオータナティブな芸術活動を牽引している。

ディンの以下の言葉通り、常に現在進行形かつ移動中の学校であり、展覧会でもあるサン・アートは、社会主義国家ベトナムを、時間をかけながら確実に「刷新」していく、芸術的政治学の実験場と呼べよう。

「サン・アートを友人たちと立ち上げたのは、自己検閲をせずに、ベトナムという国、コミュニティ、人々、アーティストと関わり、そのシステムにより効果的に介入し、挑戦するために、サン・アートは私 のベトナムにおける芸術実践であり、常に現在進行形の展覧会なのです」

(*1) 森美術館『明日への記憶』
http://www.mori.art.museum/contents/dinh_q_le/

(*2) ベトナムの芸術を支える助成金は、ゲーテ・インスティテュート、プリンス・クラウス・ファンド、ジャパン・ファウンデーショといった、いわば「海外資本」しか現時点では存在しない。

(*3) ヴォ・アン・カーンを含む三人のベトナム人写真家『すべてが明るみになる』(‘Everything Illuminated’)を2009年にディン自身がキュレーションしている。
http://san-art.org/exhibition/everything-illuminated/

(*4) この環境汚染事件に対するアーティストの反応については、Ben Valentineによる記事を参照。
https://hyperallergic.com/305568/vietnamese-artists-respond-to-marine-disaster-through-ichoosefish/ 

 ベトナムの文化規制に関する日本での例としては、TPAM2017に登場したハノイ出身のゴック・ダイが、反体制的かつ性的なシャンソンを文化局の許可なくしてリリースした結果、国内発禁処分となっている事も記憶に新しい。