Interview
24/01/2018

マーク・テ 分散する思考、未来像/「バージョン2020:マレーシアの未来完成図 第三章」

取材・文:岩城京子

この2月の東京に先駆け、昨秋、ミュンヘン・シュピラートフェスティバルにて、世界初演を迎えた、マーク・テ(ファイブ・アーツ・センター)演出による『バージョン2020:マレーシアの未来完成図 第三章』。

ときにノスタルジックに、ときにシニカルに、五人のパフォーマーにより批評されるのは、一九九一年にマレーシア第四代首相マハティール・ビン・モハマドにより提唱された未来予想図「ワワサン2020(ビジョン2020)」。これはマレーシアが教育・経済・福祉などの面で、二〇二〇年までに先進国の仲間入りを果たすべく掲げられた政治的マスタープランであった。

だがその括弧付きの「未来」が二年後に迫るいま、果たしてマレーシアの人々は、どのような「現在地」に立たされているのか。「輝ける過去」と「混乱した未来」に挟まれて生きるマレーシアの現代人を俎上にあげる本作について、初演を終えた演出家で、キュレーター、研究者でもあるマークに聞いた。

Version 2020_Spielart Munich 1「バージョン2020:マレーシアの未来完成図〜第3章〜」ミュンヘン公演より

——前作『バリン』が「バリン会談」というマレーシア独立に関わる「過去」の研究から始まったとするなら、本作は「ワワサン2020」という「未来予想図」が出発地点になっています。どのようなリサーチ・プロセスを経て、本作が作られたのか教えてください。

タイトルに「第三章」と掲げられていることからも分かるように、私たちはこの演劇公演よりも前に、すでに同テーマに基づく二つの展覧会をクアラルンプールとバンコクで開催していました。その展覧会では、会場を訪れる人たちに、九〇年代に想い描いた未来に関する、絵、オブジェクト、文章などを持参して欲しいとお願いしました。そして、それら物品をインスタレーションとして展示した。

ただそうして情報を集めていくにつれ、私たちはある危機的状況に気づきました。私も含めた創作チームの誰もが、「ビジョン2020」をあまり好きじゃない、ということに気づいたのです(笑)。例えば現役のアクティビストでもあるファーミ・レザは「このビジョンは自分の人生とは全く関係がない。単なるプロパガンダだ」と、言い切りました。だからここでは、マハティールのビジョンについて語るのではなく、当時、自分たちが思い描いた未来について語る、という方法論を採用することにしたのです。またその個人の思い描く未来を、マレーシアの未来図のどこに配置できるか、をそれぞれ考えていくことにしたわけです。

——「ワワサン2020」は、当時のマレーシア国民には、好意的に受け入れられていたわけですね。

当時は多くの人びとが、政府の思い描く未来を信じていたとおもいます。例えば、パフォーマーの一人でもあるイムリ・ナスティオンは「本当に信じていた」と言っています。唯一、このビジョンに批判的な意見を公表したのは、過激な宗教的政党ともいわれる「全マレーシア・イスラーム党(Parti Islam Se Malaysia: 通称PAS)」です。彼らは、マハティールの物質主義的ビジョンに抵抗するかたちで、「ワワサン・アヒラ(Akhirat)」という、直訳するなら「来生のビジョン」とも言える政策を唱えました。マレーシアは経済ではなく宗教を推し進め、伝統的イスラム国家として発展すべきだ、というのが彼らの主張でした。ちなみにこの「来生のビジョン」政策は、二〇一七年に実際のマレーシア議会で再び提案されました。すぐに可決されることはないでしょうが、もしも将来的にこの政策が施行されれば、マレーシアはシャリーア法(保守的なイスラム宗教法)により、宗教と思想の自由が禁じられた国家になる可能性もあります。

——本作の冒頭では、誰もが希望と信念に満ちた言葉を堂々と口にしていますが、次第に、その自信が失われていき、最終的にはとても不安なトーンでマレーシアについて語るようになる。安定から不安、一貫した物語から断片化されたストーリーというのは、この四半世紀に起きたマレーシア国民の意識変化を反映しているとも言えるわけですよね。

そのとおりです。西洋に植民地化された国家がすべてそうであるように、私たちマレーシア人も、激烈な社会変化をくぐりぬけて生きてきた。そしてあまりにも社会が早いスピードで進むとき、人々はその速度に付いていくのに必死で、社会に対する「批評性」を失います。だから、その盲目性のなかで安定していられるのです。でもようやくいま、俯瞰的視座に立てるようになったとき、人々は国家に対して、社会に対して、自分に対して批評的になり、なにを信じていいのか分からなくなる。また九〇年代に語られていた言説が、あまりにも遠い過去に思えて、アイデンティティの一貫性を保つことが難しいことにも気づきます。

——公演では終盤にかけて、徐々に舞台が脱構築されていきますよね。そのドラマトゥルギーもマレーシアの近現代史にあてはめて考えると、ある意味でとても示唆的です。

私は、以前にもどんどん舞台上が「散らかっていく」作品を作ったことがあります。だからまず言えることは、そういう方法論が好きなのかもしれないということです。あとは、本作のテーマである「分散」という概念を、どうにかして表現したかったということもあります。私たちは日々雑多な「活動」に追われていて、信念のある「行為」が実現しない。そのような思考の散らばりを、ドラマトゥルギーで可視化したかったのかもしれません。

——日本公演に向けて、どのように本作を改訂したいと考えていますか。

ドイツではあえて、マレーシアの未来におけるイスラム教について触れることは止めました。欧州ではイスラモフォビア(イスラム嫌悪)がまさに問題になっているので、あまり安易にこのテーマに触れると、いろいろと勘違いされる可能性があるな、と思ったのです。このあたりは、日本公演に向けてもう少し練り直します。また、本作で唯一の女性パフォーマーであるリー・レンシンのセリフが、ドイツ公演ではあまりありませんでした。それは振付家でダンサーの彼女自身が「セリフよりもムーヴメントで語りたい」と言ってきたからなのですが。日本では、彼女の思い描く未来像についても、もう少し触れたいと考えています。

東京公演
シアターコモンズ’18「バージョン2020:マレーシアの未来完成図 第三章」
2018.2.24 Sat – 25 Sun 港区立男女共同参画センター リーブラ