アラフマイアーニ (インドネシア) への民主主義にまつわる十の質問
- 名前と肩書きを教えてください。
アラフマイアーニ。インドネシアのアーティストです。
- より詳しく自分について話してください。
「クリティカル」と「マージナル」という単語は、わたしを理解するうえで重要な単語だと思います。子どもの頃からなぜかわたしは、自分の置かれた状況に対し、とてもクリティカル(批評的)な目を持っていた。そのせいで、わたしはよく「自分はまちがえた場所に生まれおちた」と思って、子どものころ泣きじゃくっていました。わたしはいつでも社会の暗部を眺めてしまう、どれほど平和に思える環境にあっても抑圧された苦しみを見抜いてしまう傾向があるんです。ですからバンドンで過ごした少女時代、わたしは自分のおかれた状況に無自覚に批評的になるあまり、まるで自分が異邦人のように思えて泣いていたんだとおもいます。
ところで、わたしは2006年からインドネシア、オーストラリア、マレーシア、シンガポール、フィリピン、日本、タイ、中国といった異なる地域でアジアにおける「コレクティブ・クリエイティビティ」の概念を考える『Flag Project』を実施してきました。そしてそのプロジェクトの一貫で、2010年から、かつてのチベットのカム地区として知られ、現在は中華青海省の一部に合併されている地域でチベット仏僧たちと携わるようになりました。500人のチベット仏僧、ゲシェ(チベット仏教の学者)やラマ(高僧)たちは、最初こそインドネシアから訪れたアーティストであるわたしに対して怪訝な目を向けていましたが、わりと早い段階でわたしたちは打ち解けることができました。そのとき、彼らに自分の幼少期の話をしたら「それはそうでしょう」という答えが返ってきました。「あなたは前世でチベット系民族だったんですから、インドネシアで異邦人だと感じるのは当然です」って(笑)。
でもべつにわたしはインドネシアのあらゆる人に対して、距離を感じてしまうわけではないんですよ。子供たちや女たち、つまり権力の中枢から除外されたマージナルな人びとに対しては非常に強い絆を感じる。自分でもなぜそうなるのかはわかりません。でもどうしても弱者に目を向けてしまうところがあるんです。
- 両親と政治に対する見解が異なりますか?
政治というより宗教的な教えに関して、父とよく対立していました。昨年亡くなった父は、ウラマー(イスラム法学者)であり、国家の宗教的指導者であり、インドネシア国民協議会の副議長を務める政治家でした。一方、わたしの母は「ケジャウェン(Kejawen)」というヒンズー、アニミズム、イスラムがミックスした民族宗教の実践者でした。ただイスラム文化の慣習として、母は父の言葉に従って暮らしていた。
父はコーランを諳んじ、神を信じ、日に5回祈るようにわたしを教育してきました。でもクリティカルにものを考えるわたしは、その教えに疑問をもった。宗教は神を信じよと説いてくる。でも「なんで?」がわたしの素直な反応でした。父は絶句してましたよ。神は信じるものであって、存在を問いただすものじゃないですから(笑)。とにかく父の古い教えと、新世代のわたしの価値観は正面からよくぶつかりました。議論もたくさんしましたよ。ただ父はコロンビア大学とオックスフォード大学で教育を受けた極めてモダンな知的エリートでもあったので、わたしのこうした疑問に対してきちんとした知性をもって対応してくれた。そのおかげで、わたしは異なる意見の人間に対して、敬意を持って応じるすべを学びました。同時に、イスラム教、仏教、ヒンズー教、キリスト教など、あらゆる宗教を批評的に分析する視点も身につけられました。
- 地元の教育システムのおかげで、よりよい大人になれたと思いますか?
わたしは地元の学校へは行かず、自宅でイスラム学校に準拠するカリキュラムを学びました。そして、その教育体系から多くの素晴らしいことを学びました。けれど現在のインドネシアの教育システムは、東南アジアで最低レベルです。初代大統領スハルトは、様々な教育の選択肢を残してくれた。親たちは、自分の子に適した学校をおのおの選ぶことができました。けれどスカルト軍事政権以後、教育は完全に画一化されてしまった。あらゆる思想をコントロールしようと試みたスカルトは、教育システムも一元的に制御した。例えば彼の政権下で、歴史修正されたインドネシア現代史が教えられるようになったことは有名です。わたしは幸運にも自宅で学んだため、こうした無残な教育システムに洗脳されずにすみました。
- 最近、人になんらかのかたちで攻撃され、気分を害しましたか?
インドネシアで攻撃を受けることは日常茶飯事です。特にわたしは発言力のある女性であるため、まずなにより多くの男性から責められます。もうひとつ攻撃の源泉になるのは、アート界にはびこる嫉妬。特に2008年のアートマーケット・ブーム以後、アーティスト間での醜い争いが目にみえて増加しています。残念なことにわたしたちが生きる現代社会は、ひとに柔らかく寄りそうのではなく、ひとと対決し議論することを促します。現代西洋社会の価値観に影響を受けるわたしたちは、ひとと異なる道を突き進むことをよしとします。けれどその行き着く果ては、嫉妬と、競争の、無限地獄です。なぜ他者と資財をわけあい、機会をわかちあうことができないのでしょうか? 後期資本主義社会い生きるわたしたちはいま、競争原理とは異なる生き方を探らねばならない時期にきているようにおもいます。
- 最近、発言や行動を自主規制(自己検閲)しましたか?
これはおもしろい質問ですね。わたしの考えでは「自己検閲」という言葉が、そもそも極めてエゴイスティックです。なぜなら自己検閲という行為は、自分の考えの方が正しい、という無自覚な傲慢さのうえに成り立っているからです。自分は正しい。だけど他者はそれを理解しない。だから発言を不本意ながら規制しなければならない、というロジックです。さらに言うなら、自己検閲とはダイアローグの最終地点がほぼ「対立」か「妥協」で終わってしまう西洋思想に基づいた概念です。危険な対立を避けるためには、不本意な妥協しかない。
けれどチベット仏僧たちと暮らしていて、わたしは対立するのでも妥協するのでもない対話の方法論があることを知りました。つまり他者という「ヒト」に向かうのではなく、解決したい問題という「事象」そのものに向かい、その問題を改善するためにベターだと思われる小さな行動を積み重ねていく。そうするとたとえ異なる意見を持っていても、行動を共にすることで、次第に共通理解が生まれていきます。またその行動から、わたしのものでもあなたのものでもない第三者の哲学が生成されていきます。この世には複数の思考法と、複数の実践法がある。それを理解すれば「自己検閲」などという傲慢な考えは生まれてこないはずです。
- 地元メディアが喧伝している嘘を教えてください。
わたしが子どもの頃から、多くのインドネシア人はテレビ中毒患者のようになっています。そしてテレビを含むマスメディアの多くは完全に政府の支配下におかれています。ですからメディアが流す情報の多くは嘘です。酷い話です。ただ最近はソーシャル・メディアが発達しているおかげで、少しずつ状況が改善されつつあります。人と人とがマスメディアを介さずに、情報をシェアすることができるようになってきています。
- 憲法/法律の一項目を変えられるなら、なにを改変したいですか?
まず、憲法や法律がきちんと遵守される社会を作りたいですね。インドネシアではたやすく裁判を買収することができます。どんな過ちを侵そうとも、判事に大枚を払えばすぐさま無罪判決です。この国では、正義より大金が力を持つのです。その流れでいえば、ジョコ・ウィドド大統領が促す麻薬犯罪者に対する死刑制度はいますぐ廃止して欲しいです。現在、インドネシアでは何百人という麻薬犯罪者が死刑囚監獄に投獄されています(そのうち約3割は日本を含む、17カ国に及ぶ外国人)。なかには知らないあいだに旅行鞄に麻薬を忍ばされ、死刑判決を受けた冤罪者もいます。そのため人権擁護団体は、死刑ではなく禁固刑にしてほしいと強く訴えています。けれど政府は、犯罪者たちの食費や生活費がかさむことを理由に、禁固刑に乗り気ではありません。悲しいことに、インドネシアは人道的な美徳を失ってしまいました。経済が人の命よりも重要なのです。
- 日々、なんらかの宗教、信念、慈悲心を実践していますか?
この質問でもっとも重要なのは、どの宗教や信念を選んでいるかではなく、それをきちんと「実践」しているかどうかです。わたしは幼少期からあらゆる宗教体系を学んできました。その結果いたった結論は、核心部の教えはほぼ同じということです。あらゆる宗教は慈悲心に基づいています。わたしは毎日、同じ時間に祈りを捧げたりはしません。けれど慈悲心を実践するようには心がけています。いままでの全人生、わたしは宗教原理を実践することに心血をそそいできたともいえます。実地の生活に適応されない教えなど、なんの意味もありません。滅んでいくのみです。チベット仏僧たちとの対話のなかで、わたしは何千年もまえにインドネシアに偉大な僧侶がいたことを知りました。その僧侶の教えの大部分は、この国ではいまでは失われてしまっています。誰もその教えを実践しつづけなかったからです。けれどチベットでは、「悟りへの道」だといわれる彼の教えが残っている。なぜならこの僧侶がのちにチベットに渡り、チベット仏僧たちがその教えを長年にわたり実践してきたからです 。2015年11月に、わたしは香港で開催された「アジア・ソサエティ アート&ミュージアム・サミット」に招聘されて無形文化財の重要性について語ってきました。文化とは、美術館に保存するのではなく実践されなければ失われてしまうものです。同様に宗教でも「Thinking」より「Doing」が大事なのです。
- 自身の芸術活動を通して法に抵触したことはありますか?
ハハ、これは簡単な質問ね。答えは「イエス」よ。まず1983年に、当時のスハルト軍事政権を批判するような路上パフォーマンスを行った際に秘密警察に逮捕されました。わたしが道路にチョークで描いたミサイルや戦車の絵は、すぐに雨に流されてしまいました。けれど運悪くそれを見ていた観客の誰かが、警察に通報したのです。一ヶ月、留置所に抑留されてから釈放されました。
次は1994年にジャカルタで『Sex, Religion and Coca-Cola』という個展を開いたとき。イスラム原理主義者たちが『Lingga-Yoni』という女性器と男性器の合体図を彷彿とさせる絵に文句をつけてきました。でもこれはジャワ島の古いイスラム寺院にある聖なるシンボルなんです。わたしはそれをそのまま写しとっただけ。なんら冒涜的なことはありません。また彼らは『Etalase』という作品で、同じ展示ケースのなかにコーランとコンドームを並べて陳列したところ「お前は血を見ることになる」という脅迫文を送ってきました。わたしが言いたかったのはコンドームもコーランも使い方ひとつで、薬にも毒にもなるということ。でも彼らにはそのコンセプトが理解してもらえなかったようです。